答えがなくてもいいじゃない
高校の頃、文理選択をする時に私は数学が苦手だと思い、迷わず文系を選んだ。
それはもちろん国語や社会が好きで得意だったというのもあるけど、数学や理科から逃げたかった思いもあったと思う。
人生で50点台を取ったのは軒並み理系教科で、生まれて初めて「わからないがわからない」を体験した様な気がした。
いつしか「たった一つの答えを導くなんて無理」と言い、理系科目を毛嫌いする様になっていた。
でも大人になった今、思う。
国語も社会も答えが無限にあったわけではないし、論述の問題だってある程度の答えのボーダーは用意されている。
答えは文章の中にあるといったって、その正解を決めた人の判断でしょ
私の感覚は正解ではないの?
とかね。まあ半分屁理屈でもあるんだろうけど。
前置きが少し長くなったけれど、ここ最近は今までより強く「答えがなくてもいいんじゃないか」「答えを見つけ出す必要はあるのか」と考えるようになった。
この世、全てに意味を持たせたい人間が多くない?全ての出来事に意味を見出してそれを力に変えていく、素晴らしいことだと思う。だけどなんでもない行間、自然としての演出、本能的な行動、意味や理由のないものに無理やり何かを見出したくなるってただ苦しくなるだけでは?無意味でも有意義はあるよ
— 恋してるめもちゃん (@koisurumemochan) 2022年5月13日
映画のワンシーンを見て、「これはこういう心情を意味している‼️」とか
漫画のセリフのない表情だけのキャラクターを見て、「これはあの伏線か…⁉️」とか
まぁ確かにそうである時もあるだろうしそうかもしれないけど、必ずしもそうではないよねってこと。
もっと言えばそれを、違う見方をした他人に「これはこうですから‼️‼️」と言い切れるその心、本当に強い〜
全ての物事は繋がっているとか、意味のないことなんてないとか言うし、確かにそれを実感する出来事もある。
たまたま勧められて見始めた作品や広告で見かけた作品が、数日後久しぶりに会った友人との話題に上ったり。
今まで中途半端ながらもそれなりに経験してきてたら、それが全部繋がるような瞬間に出会えたり。
でもさ、それって結果論じゃない?
正解なんて、答え合わせしない限りわからないものなんだよ。
テストの点数で競い合ってた時代は終わって今、大人たちは正解を叩き出すことに快感を覚えているってこと?
あなたがそこに答えを見出すのは自由、だけどそれは一つじゃないから。
他人の答えや、それを導くまでの途中で手助けしないでねという話、それは邪魔だから。
あの頃の私たちのように、「ここ答え何?」「x=3、y=-2だよ」とかじゃないんだよもう。
勉強教え合ったり、答えを教え合ったりする段階はとうに過ぎたのだと思う。
よく「高校からは義務教育じゃなくなる」と言うけど、大抵の人が大学まで進学する今、正直大学生まではいつまでもレールの上。
そこから初めて、一人、社会にほっぽり出されて何を思うのかな
いつまでも変わらぬ心で誰かに正解を与えたいのかな
自分だって正解がわからないのに?
あ、だからそれを他人に認めさせることで正解だと信じ込めると思っているのかも
でもね、この世に正解や答えが一つじゃなくなったとしても
そこに答えはきっと存在していて
だけど同じだけ間違いも生じている
自分の間違い、そして他人の間違いだと思う答えとどう向き合うかで
その人の本質が見えてくるんじゃないかなぁと思いました。
私は答えも理由も、あってもなくてもいいと思っている。
そう思うことで救われる気持ちもあるのよ、という話でした。
絶対に答えが欲しい、意味を見出したい誰かには届かないかもしれないけど
でも届かなくったっていいわよ
届けたいなんて思っていないから。